第78号 「フクシマ」の今

3月16日の浅草勉強会のために上京した機会を活用し、18日に仲間4人とともに、「フクイチ」周辺の町村回ってきました。
三人は初めての「フクシマ」でしたが、私にとっては3年ぶりになります。
三年前までの数年間に、「宇宙エネルギー戴パワー」の製品がパワーアップするたびに訪れては、手当たり次第にあちこちに設置して歩いていたのです。
3?4回は回っていました。

この度、今までとはまるでケタ外れの製品が授かったので、久しぶりに一人で回ろうと思ったのですが、そのことを仲間たちに話したところ、「本業よりもご法務を優先し
ます」という「おおばかやろう」が三人も手を挙げてくれて、そのうちの一人の菅野弘一さんが車を運転してくれるというので、18日の朝に東京を出発したのでした。

今回は「あれから9年も経過しているのだから、フクイチの周辺の町村も回れるのではないか。報道では、大分復興しているという情報も流れていたから・・・。」という
安易な気持ちから計画を立てて出発したのですが、とんでもない現実を見せつけられてまいりました。

常磐自動車道を快適に飛ばして広野インターを降りて、国道6号線を北上して行くと「あれっ」と思う様子に戸惑いました。
3年前に走った時には、6号線の右折も左折も全部ガードで止められて、その時は「仕方がないなあ」と思っていたのでしたが、あれから3年も経っているのだから、もう
そんなことはないだろうと思って設置場所の計画を立てていたのですが、最初の左折の場所で遮られ、しばらく走って右折したい場所ではまたも、ガードの柵が目に飛び込んできたのです。

そのまま北上して行くと、右の風景も左の様子も、三年前と寸分変わっていないことに気か付いたのです。
9年前の「あの日」、事故にあって人々が追いたてられて無人と化した街並みが、そっくりそのまま、店舗のガラスの割れ具合まで、何の変化もなく、道筋に連なっているのです。  三年前に、何度も通って、その都度衝撃を受けていたのですが、それから丸3年以上経過しているのに、ガレキひとつ片付けるでもなく、そっくりそのままの「姿」が延々と続いていたのです。

「あれから、9年も経っているんだぞ!」という言葉が、自然に私の口から絞り出されるように発せられました。
その国道6号線は、途切れることなく大型のトラックが行きかいます。
3年前とまったく同じ状況ですが、あの時は「復興への力強いエネルギー」としてその姿を見ていた記憶がありますが、あれから三年、同じ様相を見ているうちに、たまらなくむなしさがこみあげてくるのでした。

「何が復興だ! 何が前進だ!」

そのうちに、私の心はますますふさぎ込み、いつしか心の中で土下座していました。そして、申し訳ないとのお詫びの涙が、とめどなく流れてくるのでした。
私が犯した罪ではないのに、なぜか「すみません。申し訳ありません」と、心の中で土下座して謝り続けながら、国道6号線の両側の、三年前の記憶に残る風景を見続けておりました。
沿道の建物たちも泣いていました。
その慟哭の声が、胸に響いてくるのです。

3・11の大津波後一週間ほどして、岩手県から宮城県沿岸を走った時の激情がよみがえってまいりました。
「物見遊山と後ろ指刺されようと、全国のバッチをつけている連中は、この現実を見に来い! 今すぐに、この現実の中を走ってみろ!」

国会議員、県会議員、市町村議員を問わず、全国のバッチをつけている者は、今のこの国道6号線を走ってみろ!

マスコミは、駅が新設されただの、道路が開通しただの、帰還困難区域が解除されたのと「明るい話題」を小出しにして報じていますが、それに惑わされて「現実」から目も心も
遠ざけられています。私自身もそうでした。

立派な駅がありました。人は誰もいませんでした。
立派な道路もありました。車は走っていませんでした。
「あれほどの瓦礫」が、きれいに撤去されている場所がありました。
家は、一軒もなく、ただ、だだっ広い、広場でした。

浪江町で再び常磐自動車道に入り北上を続けましたら、眼下の田んぼには無数の黒いプレコンバックが連なっていて、今年も春になっても耕せる状態ではありません。
あれから、9年も経っているのに・・・・。

ゼネコンは、「フクシマ」での仕事は無尽蔵にあるとして、長期的な安定収入を見込んでいることでしょう。

国道6号線も常磐自動車道も海よりの沿道も、大型トラックをはじめ作業用の車であふれかえっています。
一見、活気あふれる街並みです。

しかしそれは、すべてが「非生産的」な労働現場です。
膨大な金と、膨大な人員と、膨大な時間とを費やしているこの「現場」は、すべてが「非生産的な金の使い方」であり「非生産的な労働力」であり「非生産的な時間の使い方」であります。
行き交う大型トラックの荷台には「除染」と称しての土砂や瓦礫が載せられています。国際的な許容線量基準を大幅に下回っているのにも関わらず、ほぼ無害に近い土砂を、あっちからこっちに移動し、プレコンバッグに詰め込んで田んぼや空き地に並べている・・・・。
多分に政治的な悪臭がし、ゼネコンの企みを感じながらも、「現実」は,厳然として流れています。

走り回る作業車のすべてが「非生産的だ」とは言いませんが、このような観点もあるのだということを言いたかったのです。

このことに気が付きましたら、まったく同じ情景があることを思い出しました。
野球やサッカーをはじめとするプロスポーツの、サポートと称する観客たちの姿そのものです。
膨大なお金と膨大な時間とを、ただ見るだけ、応援するだけに費やしています。それだけのお金と時間を「労働」に向けたなら、あっという間に「労働力不足」問題の50%以上は解決するのになあと思うのは、私だけでしょうか。

話を元に戻します。
常磐自動車道を南相馬インターで降りて、一般道を福島駅に向かいましたら、見慣れぬ真新しい道路につながっていました。
なんと、太平洋側の街から福島駅までのほぼ半分の距離に、高速道が完成されていたのです。
三年前まで何度もこの道を通っていましたが、曲がりくねった山道が多く、今回も、さあ、山道だぞと思ったとたんに、真新しい高速道に出たのでびっくりです。
三年という月日は、こういう劇的な感動をも与えてくれるのに、あの国道6号線沿線は、「あれはいったい何なのだ。この9年間という時間は何だったのだ。3年間という
時間はあの6号線沿線には存在しなかったのか!」と、改めて心を締め付けられたことでした。

仲間たちと福島駅で別れるときに、誰言うとはなしに「また、来なければいけないね!」との言葉が発せられ、「その時」の決意を胸に、私は新幹線で北上し、三人はその
まま自家用車で南下して行ったのでした。