7月26日27日と二日間、人生初の佐渡島に行ってきました。
事の起こりは一か月ほど前に、高木書房の斎藤信二社長さんからの、
「順徳天皇が佐渡島へ流されて、そこで亡くなってから今年で800年になるので、順徳天皇の霊を慰めるための会を計画している人がいる」
という話から始まった「佐渡ご法務」でした。
私は「順徳天皇」というお名前ははじめて聞くほどの日本史音痴なのですが、「佐渡に流され、そこから一歩も出ることなく、そこで崩御された天皇様の没後800年目の供養祭」という話の内容に異様に興味関心が湧き、すぐに、「その供養祭の前に現地へ行って、浄霊してあげたいですね」と斎藤さんに言っていました。
斎藤さんはすぐに動いて、あっという間に7月の26日と27日の両日に島を回りましょうということが決まったのでした。
7月に入ったばかりの頃でしたが、すぐに斎藤さんから送られてきた『順徳天皇』の本に載っている何枚もの写真から感じ取った慰霊・浄霊の為のレシピを考え、翌日には完成させていました。
それに『佐渡島さん、ありがとうございます』というラベルを張って、佐渡島のお仲間の旅館経営の社長さんに、29個送っていたのです。
なぜ、29個かといいますと、パッとひらめいて、パッと材料を注文したら、29個できた、というごく単純な理由です。
さて26日、数十年前の青函連絡船の気分を思い出してフェリーに乗って数時間、左舷に見えてきた佐渡島を「縄文式波動問診法」で調べましたら「プラスマイナスゼロ」と出ました。
佐渡島に到着早々、斎藤さんのお仲間の山田さんと佐々木さんというお二人のご案内で島内を回ることになりましたが、斎藤さんが記録していましたのでご法務の場所を列挙してみたいと思います。
26日
1 八幡若宮神社・・北一輝の碑
2 本光寺・・本馬雅晴陸軍中将の碑
3 大膳神社・・佐渡島最古の能舞台
4 妙宣寺・・日蓮上人関連寺院 境内に日野資朝卿の首塚
5 国分寺跡
6 真野宮・・順徳天皇祭祀宮・日野資朝・菅原道真合祀
7 真野御陵・・順徳天皇御火葬塚
8 恋が浦・・順徳天皇御着船地
9 慶子女王陵墓・・順徳天皇の皇女
10 千歳宮陵墓・・順徳天皇の皇子
11 妙照寺・・日蓮上人関連寺院 境内に日野資朝卿の首塚
12 実相寺・・日蓮上人関連寺院
27日
13 夫婦岩・・宿泊した「めおと旅館」の目の前にある奇岩
14 佐渡金山・・無宿人の墓
15 二宮神社・・順徳天皇の皇女忠子女王陵墓
16 黒木御所・・順徳天皇の住居跡
二日間で、以上16箇所に『佐渡島さん、ありがとうございます』を埋設したのですが、設置前はそれぞれ「プラスマイナスゼロ」「マイナス10万馬力」「マイナス100万馬力」とまちまちでしたが、設置後はすべてが「プラス10億馬力」に跳ね上がっていました。
そのことを確認するたびに、ああ、我々はここに呼ばれてきたんだなあ、との思いが深まるのでした。
帰りの船から佐渡島全体を「縄文式波動問診法」で調べてみましたら、「プラス10億馬力」になっていました。
当然の結果だと思いながらも、やっぱりうれしくなりました。
ところで、我々を案内してくれた山田詩乃武さんという男性は佐渡島出身の方で『順徳天皇』という立派な本をPHPから出版している文学者で、とにかくあきれるほどに佐渡の歴史に詳しい方でした。
この方が、佐渡金山の無宿人の墓に案内してくれる時に、津村節子さんの『海鳴』という小説をもとに、いかに金山で働いていた無宿人たちが過酷な、地獄のような境遇であったかを、それこそ「見てきたように」滔々と解説してくれたのですが、実際にその墓へ行ってみると、見上げるような立派な墓が何基も連なり、一番大きな墓には「江戸」とただ二文字、大きく彫られているのを見て、小説に書かれているような、人非人扱いをされていたとは到底思えなくなったのでした。
江戸時代をことさらに悪く言わなければ、明治維新万歳にはならない、という論を掲げている、最近はまっている『新・日本列島から日本人が消える日』と『縄文時代を創った男たち』という二冊の本を、繰り返し、繰り返し読んでいる私には、津村節子氏の創造性豊かな表現力によって「創られた現実」がまことしやかに広まって、佐渡金山を、そして、江戸幕府をことさらに貶めているような気がしてきたのでした。
無宿人の墓へ至る道は、その当時目を見はるような繁華街であったというし、その道を実際に我々も通ったのですが、なるほど、京の都にも匹敵するような商家が連なっていたという名残が、今もかすかに残っているのがわかります。
その豪華絢爛たる賑わいのすぐその先に、江戸幕府によって、実に豪華ともいえるほどの大きなお墓を立てて、金山労働で亡くなった人の霊を弔っていた事実が、今に残っているのです。
しかも、見上げるような鐘撞堂があり、こんな山の中に?とびっくりするほどの大きな釣り鐘が現存しているのです。
4人でかわるがわる撞いてみましたが、なんともいえぬ重々しい響きと、いつまでも続く余韻があり、まさに「名鐘とはこういう響きをもたらすのかもしれない」と感嘆させられたのでした。
試みに、山田氏からお聞きした「地獄にも似た悲劇物語」を「縄文式波動問診法」でお聞きしてみましたら、「80%は、作者の創作である」と出ました。
それはまあ、置くとして、山田氏が同時にお話しくださった「遊郭に働く遊女たち」の、これまた地獄さながらの境遇の様もまた、同じパターに見えてくるのです。
この佐渡島には日蓮上人様も流されてきたのだと言いますが、案内されて回ったゆかりの場所は、実に丁寧に管理されていました。
何よりも順徳天皇様を今も大事にされている様子が、島内を回る間にあちこちに散見されて感動していたことと合わせて、最初に船の上から見た佐渡島の波動数が「プラスマイナスゼロ」ということが、腑に落ちてきたのです。
島内にはすでに高圧電線が張り巡らされていますし、電気・電子機器の普及も、本土並みになっているにも関わらず、島全体が「マイナス波動」になっていなかったのは、その島に住む人たちの心が「強烈なプラス波動」の持ち主が多いからだと、私は思うのです。
もしも、津村節子氏の小説のような「江戸幕府によって、無宿人たちが労働消費者のようにこき使われ、死んでもその辺に埋められていた状態であれば、今も佐渡島は、彼らの怨念によって強烈なマイナス波動の島であるはずなのです。
それが、ご法務前は「プラスマイナスゼロ」でありご法務後は、島全体が「プラス10億馬力」になっている何よりの証拠だと、私は思うのです。
論より証拠。
同行した高木書房の斎藤信二社長さんが「証拠写真」を写してくれていますので、何か所かの写真を掲載しますから、皆さんでOリングテストでも「縄文式波動問診法」ででも、確かめてみてください。
二人で組めば、より正確にわかります。
同じ位置からの2枚の写真の、左が設置前、右が設置後です。
なお、「佐渡島」は、別な意味で何度も訪れることになりそうな、そんな、
強烈なご縁の糸を感じています。
ありがとうございます。
2021年7月31日