第119号 新宿歌舞伎町のコロナクラスターを・・・

先月、7月16日に私は、前の全国市長会会長の松浦正人さんが主宰する10人ばかりの食事会に誘われて、目黒区のあるすし屋さんで、久しぶりのおいしいお酒に酔って気分壮大になっていました。

その数日前には、東京都の小池のおばちゃんが、新宿歌舞伎町を目の敵のようにして糾弾していました。

「新宿歌舞伎町」と言えば、私にとっては、まさしく青春真っ盛りの頃の特別思い出のある場所なのです。18歳で上京し、右も左もわからず、津軽弁は一向に通用せず、無試験ということで入学した予備校には、数か月で不さぼり癖が付き、毎日、パチンコと安酒に明け暮れていたころの話です。

予備校は早稲田鶴巻町にあり、そこの専属の三畳一間の下宿で生活していたのでした。

翌年、何とかM大学の夜間部に潜り込みましたが、ここも一か月ほどで自主退学。生活ぶりはますます荒れて行きました。住まいは、中央線の三鷹駅から井之頭公園へ向かう閑静な住宅地の素人下宿に恵まれ、、そこで自炊生活が始まり、結局ここに5年間住みつくことになったのですが、その1年目の夏の頃。

仕送りの金はすぐになくなるし、手当たり次第に質屋に入れて小金を調達しては、新宿西口の通称「しょんべん横丁」で安酒をあおり、終電で帰っていたのでした。

時折、懐具合があったかいときには、新宿歌舞伎町へも繰り出していたのでした。

そんなある夜、六大学野球の早慶戦で勝った早稲田の応援学生たちが、歌舞伎町を我が物顔に占拠して飲み歩いています。奇声を発し、肩を組んで道の橋から端まで連なりながら、闊歩しています。傍若無人のふるまいでした。

私は、その頃、かなり心が荒んでいまして、朴歯の高下駄を履いて、ガラガラと音立てながら、あちこちの盛り場を飲み歩き回っていたのでした。

この時、今でもはっきりと覚えていますが、「よし、奴らにケンカを売ろう。そして、思いっきり叩きのめされれば、この心の憂さも、少しは晴れるだろう」との気持ちから、向こうから横一列になって肩を組んで進んでくる早稲田の学生たちに、真っ正面から、ガラガラと足音高く、近づいて行ったのでした。

一触即発、と期待した瞬間、彼らはパッと道を開け、私はその真ん中を、打ちひしがれた気持ちで通りすぎたのでした。

「ああ、あいつらまでも俺をシカトしやがった。」

言い知れぬわびしさがこみあげてきたのです。

 

こんな忘れえぬ思い出がある「新宿歌舞伎町」なのです。

目黒の寿司屋さんで歓談していた時に、この懐かしい情景が目の前に浮かんできたのでした。

「皆さん。新宿歌舞伎町が、やり玉に挙がっていますね。あの町一帯を、電磁波被曝やコロナさんたちから守ることができるんですよ。」と思わず叫んでいました。すると、間髪を入れずに松浦さんの声です。

「木村さん。私はあなたの技術を信じています。やって見せてください!」

まっかせなさい、とばかりに啖呵を切って、さて、その三日後。

私は日程上すぐ帰らなけらばならなかったので、日ごろ「ご法務」と称して、あちこちに設置してくれている仲間の菅野弘一さんが、実施してくれました。

その写真を掲載します。

例によって、Oリングテストや「縄文式波動問診法」の心得のある人は確かめてください。

「この写真の場所は、電磁波被曝されています」

「この写真の場所には、コロナさんがいます」

こういう言葉で、両方の写真を調べてみてください。

 

こういう風に、宇宙のエネルギーパワーは、底知れぬ力を発揮してくれます。

ついでながら、コロナクラスターがはやり出したころ、大病院でも様々な施設でも、「これ1本を建物内か周囲に仕込めば、クラスターを防ぐことができる「」という製品を授かり大量に作って、東京都や千葉県、埼玉県の関係する場所に設置しているのです。

この時に活躍してくれたのが、菅野弘一さんであり、浅草勉強会の代表世話人をしてくれている有泉智彦さんです。

最近またまた「クラスタ^ー」という言葉がニュースになっています。

今度は医療関係施設ではなく、スポーツ関係の寮などの様です。

 

だからどうのこうのというわけではありません。

とりあえず、今までは仲間内だけで、やったね、と「ほくそ笑んで」いたことを、紹介したくなったということです。

 

実は昨日、このメルマガに写真を取り組みことができることを知り、その方法をプロの方から伝授していただいたものですから、面白くなって、この記事を書いたものです。

 

ありがとうございます。

 

令和2年8月12日