第149号 『眠るがごとく、死ぬために』 豊岡憲治先生講演録 完成

かねて予告していました豊岡憲治先生の講演録『眠るがごとく、死ぬために』の第3版が出来上がりました。

わずか54頁の小冊子ですが、その中身たるや、数千ページの医学書にも勝る内容であると、私は自信をもってお勧めいたします。

なぜなら、自分の命、家族の命、友人知人の命を守り、健康のままに生き永らえ、最後には「眠るがごとく、死ねる」ための、豊岡先生渾身の魂のエキスが、ぎっしりと詰まっているからです。

 

しかもそれは、並みの医者たちの、浮ついた説教臭い言葉だけの教えではなく、豊岡先生自らが実践し体験して見つけられた「真理」であり、なかんづく、読んですぐに役立つ内容であるからです。

 

一冊 880円(税込み・送料サービス)

 

一家に一冊、ぜひどうぞ。

 

間もなく、ネット販売にも載せますが、このメールでも受け付けます。

 

 

ところで、前号の森信三先生の教えの一つである「性欲の萎えた者は、大きな仕事はできない」ということは、考えてもみれば、至極当たり前の事じゃねえか、と今朝ふと気が付きました。

というのは、最近の私の「勉強会」で必ず触れている事なのですが、「かたわ」という言葉の意味についてです。

「かたわ」という言葉は「めくら」などとともに、「差別語」であるとどなたかが決めつけて、いわゆる放送禁止用語になっている言葉です。

「かたわ」とは漢字で書けば「片輪」と書けます。

昔の大八車やリヤカーなどは「両輪」がついて、一人前の役割を果たします。これが一輪欠けたら役に立ちません。

 

では、人間が生きてゆく上での最低の「両輪とは何か。

それは、「本能としての『食欲』と『性欲』の二つの事である」といえるのではないかと気が付いてから、勉強会で吹聴し始めたのでした。

 

ここまで気づくと、森先生の言われた「性欲」というところに「食欲」という言葉を入れ替えて読んでみると、これまた、ぴったりの真理を言われていることに気が付きます。

「食欲の萎えた人間には、大きな仕事はできない。食欲の過ぎたる人間もまた、大きな仕事はできないのである」

 

食欲が無くなって、青白い顔をして、ヨタヨタ歩く人間には、誰も大事な仕事は任せないだろうし、のべつ幕なしに食い意地が張って、ブクブク太って、駅の階段を上がるのにもフーフー言っているような人間にもまた、まともな人は大事な仕事を依頼はしません。

 

要するに、森信三先生は当たり前のことを言っているに過ぎなかったのです。

「性の問題」を必要以上にタブー視している当時の(今も全く同じです)社会にあって、大学の教室では、ほかの教授たちはどなたも取り上げられないから、森先生のお教えが衝撃的だったというだけの事なのです。

 

ちなみに私は、33年間の公立中学校の教師時代、この問題を避けて通った事は、ただの一度もありません。

学級担任をしたクラスはもちろんの事、国語科で縁があったクラスでは必ず「特別授業」と称して、この問題に真っ向から取り組んできたし、生徒指導選任教諭になってからは、この問題は決して避けては通れない問題なので、特別熱心に取り組んできたという自負があります。

 

まあ、そういうわけです。

 

一万年以上続いたという「縄文時代」と、その精神をまっとうに引き継いだといわれる(最近の何冊かの本による)260年間続いた「江戸時代」は、実におおらかに「両輪」が機能していて、平和で豊かな時代であった、といいます。

私は、100%、この説を信じているのです。

 

「片輪」では、大八車やリヤカーは、役に立たないのです。

私は、終生「両輪」をフル活用して生きようと決意しなおしました。

片方の「輪」は、だいぶガタが来て、性能は落ち込んでいますが、なに、気持ちはバリバリの現役のつもりです!

 

そうそう、もう一つ。

先日、作業服専門のお店に行って、腹回りを計ってもらったら「100センチ!」と大きな声で言われました。

「えっ、いつの間にか、100センチになってたの !」

思わず、声が出てしまいました。

 

こっちの「輪」を正常に戻さなければならないなあと、先日の「自戒」は多分にカッコつけの「自戒」でしたが、こっちの方は、本物の「自戒」をしなければならないと「反省」している私です。

 

ありがとうございます。

 

令和2年12月4日